涙がでるほど綺麗でいい話(感動した話15選)

2016年9月7日

今回は、私がこころ揺さぶられた、心に残るお話をご紹介していきます。

1.最期

いい話 1

物心ついた時からずっと 一緒だった猫が病気になった。
いつものように私が名前を呼んでも、腕のなかに飛び込んで来る元気もなくなり、お医者さんにも「もう永くはない」と告げられた。

「今は悲しむよりも最期までこの子のそばにいよう」

私がそう決心して 間もなく猫は家から消えた。家中捜しても見当たらない。
父は
「猫は死ぬ間際、自分の死に場所を 探しに旅に出るっていうからね。
きっとあの子も死期を悟って自分に合った場所を探しに出かけたんだよ。」
と慰めるように言ったが当然私は受け入れられず、町中名前を呼びながら捜し回った。

途中頭を過るあの子との思い出に涙が溢れても、 転んで足を擦りむいても ひたすら名前を呼びながら捜し回った。

やがて日も暮れ、 母に「一度家に戻ろう」 と言われ戻ったとき、 庭の向こうから私以上にボロボロになり、泥だらけになったあの子の姿がこちらに近づいてきた。
涙で霞む目を何度も擦って確認したが間違えなくうちの猫だった。
枯れた声で名前を呼ぶとフラつきながらも精一杯の力で私の腕のなかに飛び込んで来てくれた。

どれくらい経っただろう。
やがてこの子は私の腕のなかで眠るように息を引き取った。
「この子は我が家で暮らしてきて幸せだったのかもしれないな」と父が言ったとき、
少しだけ悲しさが嬉しさに変わった。
私もそう思えた。

この子は最期も私の腕のなかを選んでくれたから。

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2.母のデジカメ

いい話 5

なんか機械音痴の母がデジカメを買った。
どうやら嬉しいらしく、はしゃぎながらいろいろと写してた。何日かしてメモリがいっぱいで写せないらしく
「どうすればいいの?」って聞いてきたが
「忙しいから説明書読め!」とつい怒鳴ってしまった。
さらに「つまらないものばかり写してるからだろ!」とも言ってしまった。
そしたら「・・・ごめんね」と一言。

そんな母が先日亡くなった。
遺品整理してたらデジカメが出てきて、何撮ってたのかなあと中身を見たら俺の寝顔が写ってた・・・
涙が止まらなかった。

3.サンタさんのおくすり

いい話 15

6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いておいたから、早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、こう書いてあった。

「サンタさんへ おとうさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」

夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしてしちゃったよ。

昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と「ガンがなおるおくすり」と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。
朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げてた。

早速朝食を食べる夫の元にどたばたと行って
「ねえ! サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」
っていって、夫に薬を飲ませた。

夫が「お! 体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ」と言うと娘が、
「ああ! 良かった~。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね~」
……っていうと

夫がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めた。
私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えた。

夫は娘には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしてた。
その後、娘が近所の子に家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が
「来年はお前がサンタさんだな……。しっかり頼むぞ」と言ったので、
つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けた。

お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざった。

4.ファミコン

いい話 4

俺んち母子家庭で貧乏だったから、ファミコン買えなかったよ。。。
すっげーうらやましかったな、持ってる奴が。
俺が小6のときにクラスの給食費が無くなった時なんて、
「ファミコン持ってない奴が怪しい」なんて、真っ先に疑われたっけ。」

貧乏の家になんか生まれてこなきゃよかった!って悪態ついたときの母の悲しそうな目、今でも忘れないなぁ、、。
どーしても欲しくって、中学の時に新聞配達して金貯めた。

これでようやく遊べると思ったんだけど、ニチイのゲーム売り場の前まで来て買うのやめた。
そのかわりに小3の妹にアシックスのジャージを買ってやった。
いままで俺のお下がりを折って着ていたから。
母にはハンドクリーム買ってやった。いっつも手が荒れてたから。

去年俺は結婚したんだけど、結婚式前日に母に大事そうに錆びたハンドクリームの缶を見せられた。
泣いたね、、。
初めて言ったよ「生んでくれてありがとう」って。

5.反抗期

いい話 16

これ、反抗期の時の話しなんだけど、今でも忘れられない。
幼い頃からずっと片親で育ってきた私は、父親と二人暮らしをしてた。友達や親戚から見ても、誰から見ても、私を大事に宝物の様に可愛がってくれて、一生懸命働いてくれてた。私の願い事は無理してでも、自分を犠牲にしてでも叶えてくれた。風邪の時には仕事さぼってでも側に居てくれてた。
寂しい思いはさせなかったと思う。
二人きりだけどクリスマスや誕生日も毎年してくれた。けど、十代半ば、反抗期のせいで、父の優しさが凄くうざくなってきたんだ。
心配される事とか、口聞く事も、すべてがうっとおしくなったんだ。私は毎晩、夜遅く帰って来て、父が心配してくれても、私は父に罵声しかあびせなかった。

友達と遊ぶ事が楽しくて、だんだん家にも帰らなくなった。そんな毎日を繰り返し、また夜、久しぶりに帰ったら私の分のおかずとか、小さなケーキがおいてあったんだ。
もう誕生日も二~三日すぎてたのに、おいてあって、毎日ご飯作って、いつ帰って来るのか分からない私をずっと待っていてくれてたんだとおもったら、切なくて悲しくて申し訳なくて涙が溢れてきた。そして無造作に置かれてた小銭入れ、ボロボロな汚い小銭入れ、私が幼稚園の頃に父の日にあげたやつ。まだ使ってたんだ。

父は、ほんとに私を誰よりも何よりも大切な宝モノなんだって事が胸につきささって、父に優しくしてあげられなかった事に、また泣いた。
また後から知った事だけど、私が小さい頃に書いた父の日のカードも、肌身離さず持っていました。
あの一軒以来、私はちゃんと帰るようにはなりました。

そんなこんなで今私は結婚もして、もうすぐで子供も産まれます。
私は父がくれたあの愛情を、これから産まれてくる子供にたっぷりそそぎます。
そんな私をこれからも空から見守っててください。
お父さん、こんな私を育ててくれてありがとう。私はとっても幸せです。大好きだったよ。

6.神様への手紙

いい話 6

四歳になる娘が、字を教えてほしいといってきたので、どうせすぐ飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。
ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。
「○○ちゃんから、神様に手紙を届けてほしいって言われたんです」
こっそりと中を読んでみたら、
「いいこにするので ぱぱをかえしてください おねがいします」
と書いてあったそうだ。

旦那は去年、交通事故で他界した。
字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ…

受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。
「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ~」
最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっとつながった。
娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない。

7.俺の1時間

いい話 7

ヘタレバツイチ男は、今日も仕事で疲れきって、遅くなって家に帰ってきた。
すると、彼の5歳になる息子がドアのところで待っていたのである。彼は驚いて言った。
「まだ起きていたのか。もう遅いから早く寝なさい」
「パパ、寝る前に聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「パパは、1時間にいくらお金をかせぐの?」
「お前には関係ないことだ」ヘタレなリーマンである父親はイライラして言った。
「なんだって、そんなこと聞くんだ?」
「どうしても知りたいだけなの。1時間にいくらなの?」男の子は嘆願した。
「あまり給料は良くないさ…2000円くらいだな。ただし残業代はタダだ」
「わぁ」男の子は言った。「ねえ、パパ。ボクに1000円貸してくれない?」
「なんだって!」疲れていた父親は激昂した。
「お前が何不自由なく暮らせるためにオレは働いているんだ。それが金が欲しいだなんて。
だめだ! 早く部屋に行って寝なさい!」
男の子は、黙って自分の部屋に行った。しばらくして、父親は後悔し始めた。少し厳しく叱りすぎたかもしれない…。
たぶん、息子はどうしても買わなくちゃならないものがあったのだろう。
それに、今まで息子はそんなに何かをねだるってことはしなかった…。

男は、息子の部屋に行くと、そっとドアを開けた。
「もう、寝ちゃったかい?」彼は小さな声で言った。
「ううん。パパ」男の子の声がした。
少し泣いているようだ。
「今日は長いこと働いていたし、ちょっとイライラしてたんだ…ほら。お前の1000円だよ」
男の子は、ベッドから起きあがって、顔を輝かせた。
「ありがとう。パパ!」そして、小さな手を枕の下に入れると、数枚の硬貨を取り出した。
父親はちょっとびっくりして言った。
「おいおい、もういくらか持ってるじゃないか」
「だって足りなかったんだもん。でももう足りたよ」男の子は答えた。
そして、1000円札と硬貨を父親に差しのべて言った。

「パパ。ボク、2000円持ってるの。これでパパの1時間を買えるよね?」

8.とおしゃん

いい話 8

今日、息子が俺を「とおしゃん」と呼んだ。
成長が遅れ気味かもしれないと言われていて、言葉も遅かったから、不覚にも息が出来なくなるくらい泣いた。

嫁か息子か選べと言われた時、最後まで諦めずに運に賭けてみようと言った時、実は内心楽観的だった。
医学は発達してるし。嫁の病気での致死率は何千人に一人だし。育たないかもと言われた息子は臨月まで何の問題もなく育った。

それでも息子の誕生日は嫁の命日になった。
嫁を選んでいればと考えない日はなかった。
正直に言うと今でも時々考える。
でも、こう言う日は息子を選んだこともまた幸せなんだと、心の底から思う。

さあ、今度は、「母さん」って言葉を教えてやろう。
携帯から長文でごめんな。
酒入ってるし、浮かれすぎか。

9.お漏らしした女の子

いい話 9

中学校1年のときのこと
授業中に隣の席の女の子がおしっこ漏らしていました。女の子の席は一番後ろのはじだったので他には誰も気がついてない様子。
僕はおもむろに席を立って無言で廊下へ。
先生が後から追いかけてきたけど無視して手洗い場でバケツに水を汲むと教室に戻り、その女の子にぶっかけました。教室中大騒ぎになり、学校に両方の親まで呼ばれました。
うちの親は相手の親に平謝り。

なぜそんなことをしたのか問い詰められましたが、僕は結局最後まで口を割りませんでした。
家に帰る途中で女の子が事実を親に話したらしく、お礼を言いにうちまで来ていました。

時は過ぎて今その女の子は僕の奥さんです

10.エメラルドグリーンの空

いい話 10

小学生のとき、少し知恵遅れのA君がいた。
足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅い。でも、絵が上手な子だった。
彼は、よく空の絵を描いた。抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。
冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を周りの子供は笑う。
N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。
私はN先生が大嫌いだった。

クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することになったので、全校集会で先生のお別れ会をやることになった。
生徒代表でお別れの言葉を言う人が必要になった。
先生に一番世話をやかせたのだから、A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。
お別れ会で一人立たされて、どもる姿を期待したのだ。

私は、A君の言葉を忘れない。
「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」
A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。水彩絵の具の色の使い方を教えてくれたこと。
放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。
その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。
N先生がぶるぶる震えながら、嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。

昨日、デパートのポストカードなどに美しい水彩画と、A君のサインを発見いたしました。
N先生は今、僻地の小学校で校長先生をしております。
先生は教員が少なく、子供達が家から2時間ほどかけて登校しなければならないような過疎地へ自ら望んで赴任されました。N先生のお家には、毎年夏にA君から絵が届くそうです。
A君はその後公立中高を経て、美大に進学しました。

お別れ会でのN先生の挨拶が思い浮かびます。
「A君の絵は、ユトリロの絵に似ているんですよ。みんなはもしかしたら、見たこと無いかもしれない。
ユトリロっていう、フランスの人でね、街や風景をたくさん描いた人なんだけど。空が、綺麗なんだよ。
A君は、その才能の代わりに、他の持ち物がみんなと比べて少ない。
だけど、決して取り戻せない物ではないのです。そして、A君はそれを一生懸命自分のものにしようしています。
これは、簡単なことじゃありません!」

A君は、空を描いた絵を送るそうです。
その空はN先生が作り方を教えた、美しいエメラルドグリーンだそうです。

11.天国の連絡帳

いい話 11

俺が小学校5年生のとき、寝たきりで滅多に学校に来なかった女の子と同じクラスになったんだ。
その子、たまに学校に来たと思ったらすぐに早退しちまうし、最初はあいつだけズルイなぁなんて思ってたよ。

んで、俺の家、その子の家から結構近かったから俺が連絡帳を届ける事になったんだ。女の子のお母さんから連絡帳を貰って、先生に届けて、またお母さんに渡して…。それの繰り返し。
なんで俺がこんな面倒臭い事しなくちゃいけないんだ!って、一人でブーたれてたのを良く覚えてる。

そんなある日、俺何となくその子の連絡帳の中を覗いてみたんだ。ただの興味本位だったんだけど。
連絡帳にはその女の子のものらしい華奢な字で、ページ一杯にこう綴られてた。

『――今日もずっと家で寝てました。早く学校に行きたいです。
――今日は窓際から女の子達の笑い声が聞こえてきました。
…学校に行けば、私も輪に入れるのかな…』

ショックだった。
学校行かないのって楽な事だと思ってたから。
ハンデがある分、ひいき目にされて羨ましいって思ってたから。
でも彼女の文章には学校に行けない事の辛さ、普通にみんなと遊びたいって気持ちに溢れてて、なんだか俺、普通に毎日学校に通ってんのが申し訳なくなって。
だから、連絡帳にこっそり書き込んだんだ。

「いつでも、待ってるからな。体が良くなったら遊ぼうな!」って。

でも次の日の朝、その子の家に行ったらその子のお母さんに
「もう、連絡帳は届けなくていいの」って言われた。

あまりにも突然だった。
俺その頃悪ガキで、頭もすげえ悪かったけど、その子のお母さんの言ってる意味は伝わったんだ。……この子は天国に行ったんだ。もう一緒に遊ぶ事は出来ないんだ……。
そんな事考えたら涙が溢れて…止まらなくって…。

ずうっと泣き続けてた俺に、その子のお母さんは連絡帳をくれたんだ。
せめて君だけは、学校にも行けなかったあの子を忘れないで欲しいって。

そんな俺ももうすぐ30になろうとしてる。
あの時の連絡帳は、引き出し下段の奥底にずっとしまったきりだ。
就職したり、結婚したり、子供が生まれたり…。
今まで、本当に色んな事があった。
時には泣きたい事、辛い事の連続で、いっそ自殺しちまおうかなんて思った事もあった。
けど、そんな時はいつも引き出しを開けて、女の子の連絡帳を開くんだ。

そして、彼女が亡くなる直前に書かれた文章を読み返すんだ。
『ありがとう、いつかきっと、遊ぼうね』

12.「私を大学に通わせてくれた母へ」

いい話 12

「私を大学に通わせてくれた母へ」

あなたは私を産むまでずっと父の暴力に苦しんでいましたね
私が産まれて時、あなたは泣きながら喜んだんですね
私が一歳の誕生日に、借金を抱えたまま父が自殺しましたね
借金を返すために昼はパート、夜は居酒屋で仕事の毎日でしたね
保育園では遠足のおやつは雑穀のおはぎでしたね
小学校の給食費を払えない月もありましたね
修学旅行のおみやげはご当地キーホルダーだけでしたね
中学の制服は親戚のおさがりでしたね
高校のお弁当はいつもご飯に梅干しと海苔でしたね

無理を承知で大学行きたいと頼んだ時、あなたは反論しませんでしたね
ごみ処理場から捨てる予定の参考書をもらいに行きましたね
お金がかかるから私立は受けられず、国立専願受験でしたね
センター試験の前日には初めて特上寿司を食べさせてくれましたね
センター試験に失敗したけど、あなたは最後まで諦めないよう励ましてくれましたね
前期に落ちて、一度私は自殺しかけましたね
あなたは怒ることもなく、ずっと私に謝り続けていましたね
私もあなたにずっと謝り続けましたね
そして私は気持ちを切り替えて後 私はその後も頑張って勉強して、
なんとか後期に合格することが出来ましたね
あなたはずっと「おめでとう、おめでとう」と泣き続けてくれましたね

でもあなたは入学の準備の時に急に倒れて病院に運ばれましたね
医者が、癌が全身に転移していてこれから一週間が峠だと告げましたね

私がただただ泣き続けている時にあなたは

「この体の傷や癌の一つ一つが
あなたを育てあげた立派な勲章なのよ」

と微笑みながら言いましたね

あなたは最後まで泣くことも苦しむこともなく、静かにこの世を去りましたね

今私は医者になるために毎日一生懸命に勉強していますよ
あなたの命を奪った癌に苦しむ人々を治療して助けたいから

私が育った環境は決して恵まれてはいなかったけれど
あなたに生まれ、育てられて本当によかったよ

ありがとう、お母さん

13. 汚い仔猫を見つけたので虐待することにした

いい話 13

汚い猫を見つけたので虐待することにした。
他人の目に触れるとまずいので家に連れ帰る事にする。嫌がる猫を風呂場に連れ込みお湯攻め。
充分お湯をかけた後は薬品を体中に塗りたくりゴシゴシする。
薬品で体中が汚染された事を確認し、再びお湯攻め。
お湯攻めの後は布でゴシゴシと体をこする。
風呂場での攻めの後は、全身にくまなく熱風をかける。
その後に、乾燥した不味そうな魚を食わせる事にする。そして俺はとてもじゃないが飲めない白い飲み物を買ってきて飲ませる。
もちろん、温めた後にわざと冷やしてぬるくなったものをだ。その後は棒の先端に無数の針状の突起が付いた物体を左右に振り回して猫の闘争本能を著しく刺激させ、体力を消耗させる。
ぐったりとした猫をダンボールの中にタオルをしいただけの質素な入れ物に放り込み 寝るまで監視した後に就寝。

汚い仔猫を見つけたので、虐待するため拾ってきてから3日が過ぎた。
その間、ずっと薬品を体中に塗りたくり、俺の嫌いな白い飲み物を、たっぷりと飲ませた。
だいぶ効いているようだ、手足を伸ばして俺に腹を見せて『ンニャ~~ン』と声を漏らすようになった。
覚悟しろよ!これからもこの攻撃は続けていくぜ。

乾燥した不味そうな塊が無くなったので、買いに行くことにする。
だが、コイツは逃げるタイミングを狙っていたのだろう、俺が部屋を出ようとするとダッシュをしてきた。
ドアのノブに手をかけると、足元に纏わり付いて離れない、更に頭を傾けて擦り付けてくる。邪魔者にはお仕置きが必要だ、俺は首根っこをヒョイとつまみ、ベッドに置いて顎の下をくすぐり続けた。
「何をする!止めろ」とでも言ってるのか『ニャッ、ンニャ!』と鳴いてるが止めない。
それを10分程していると、グタッとして俺のベッドでダウンした、良い気味だ。
ダウン間際に最後の抵抗か?指を軽く噛みやがったが、俺様には全く効かないので好きにさせてやる。
帰ってきて早速、円筒状の入れ物から取り出したネチョネチョした物体を食わせる。
余程、腹ペコだったのだろう、凄い勢いで食べ始める。
馬鹿なチビ助゙だ「アゴが弱くなるぞ、高級品で軟らかいからな」

そろそろ寝ようと、電気を消してベッドに入るとあろう事か、先にもぐりこんでいやがった。
追い出してやろうとしたが、体が温かい事に気付く。
最近寒くなってきたところだ、今日からは一緒に寝ることにしよう。

たまに猫より少し大きいくらいの専用プラスティック箱に入れて車に乗せて振動攻撃
そして白服を着た女性2人に押さえつけられ、
白服の男に針を刺してもらう。このときの悲鳴にはさすがに耳を覆う。
白服に金を渡し、来月も来ると約束する

元気がなくなったのでここぞとばかり白服屋敷へ何度も行く
声もあまりでないようだ

ある日か細い声で、
一言「ニャー」と私につぶやいた。恨み言だろうか・・・
つぎの日静かに息を引き取った。燃やしてもらい、呪文を唱える和尚にさらに攻撃してもらう。

今もなお、和尚の元に通う
まだ私の攻撃は続いている・・・

14.天国から届いたランドセル

いい話 14

幼くして父親を亡くした女の子が、小学校に入学するころのことでした。
周りの子はみんな、親から買ってもらった赤いランドセルを背負って通学していました。
しかし、その子の家庭は幼くして父親を亡くし母子家庭でしたから、ランドセルを買ってもらえるほどの余裕がなかったそうです。
もちろん、家に余裕の無いことがわかっていたその子は、ランドセルがほしくても母親にねだることはできません。
子どもながらに、それはお母さんを困らせてしまうことだとわかっていたからです。
でも、毎日友達と通学していると、どうしても自分もあの赤いランドセルがほしくてほしくてたまらなくなります。
通学路にあるお店のショーウィンドーに飾ってある、新品でピカピカの赤いランドセルをいつも眺めていたそうです。

そんなある時、彼女は考えました。

「お母さんに迷惑をかけるわけには行かない。
でも、私もあの赤いランドセルがほしい……。
そうだ、お父さんにお願いしてみよう!! きっとお父さんなら私の願いを叶えてくれるにちがいない!!」

そう思った彼女は、天国にいるお父さんに手紙を書くことにしました。
まだ、習いたてのひらがなで、一生懸命にお父さん宛にハガキをかきました。

「てんごくの おとうさんへわたしは、ことししょうがくせいになりました。
べんきょうもがんばっています。いっぱいがんばって、おかあさんをたすけようとおもいます。
だから、おとうさんにおねがいがあります。わたしに、あかいランドセルをください。
いっぱい、いっぱい、べんきょうして、がんばるから。いいこにしているから。おねがいします。
もちろん、天国へのハガキです。
宛名は“天国のお父さんへ”と書いてポストに投函したそうです。

そのハガキを集配し、郵便局の職員の方がそのハガキを見つけます。
宛名は天国……。
ハガキの表には、幼い彼女が一生懸命に書いたあの文章……。
いつものように差出人不明で送り返すわけにも行かず、このハガキを手に取った職員がどうしたらいいんだろうと仲間の職員の方に相談したそうです。

「ねぇ、見て、このハガキ……。 どうしたらいいだろうかぁ……。
送り返すにはあまりにも残酷だよね」
「う~ん……。そしたら、僕たちがこの子の天国のお父さんになろうよ」
「えっ、どうやって」
「仲間みんなにお願いしてさぁ、
ちょっとづつお金を出し合って、ランドセルを買ってあげようよ!」
そして、郵便局の職員のみんなで、ちょっとづつお金を出し合い、真っ赤なピカピカのランドセルを買うことにしました。
そしてそのランドセルを小包にいれ、その郵便局の中で一番字の上手い人が代表して、お父さんのメッセージを書いて、その子の家に送ったそうです。

「○○ちゃん、お手紙ありがとう。
お父さん、とってもうれしかったよ。
いつも頑張っているのを天国から見ているからね。
これからも、優しい人になってね。そして、お母さんを助けてあげようね。
天国からいつも○○ちゃんのことを応援しているよ。
ちょっと遅くなったけど、ランドセル贈るね!!」

数日後、ランドセルとメッセージの入った小包が女の子のところに届きます。
その女の子は飛び跳ねるように喜び、お父さんからランドセルをもらったと、はしゃいでいたそうです。
そして、数年後この話を作文に書き、全国のコンクールで入賞したそうです。

15.余命

いい話 3

すごい普通に生きてきたら取り返しのつかないガンになってた。
で、先月の26日に、あと3ヶ月くらいしか生きられないって言われた。今、ムリ言って退院して、いろんな人に会いに行ってる。
湿っぽくなるのが嫌だから、事情は話さないで、
体調の良い日は友達とかお世話になった人といつもと変わらない感じでご飯食べに行ってる。
昨日は高校時代の恩師と行った。
その人は私にバイクに乗らないかと薦めてくれた人で、
夏場たまにツーリングに一緒に行ってた。
バイク、もう乗れないから、その人に譲ろうと思ってた。会ったら、やっぱり先生はバイクで来ていて、かなり羨ましかった。で、ご飯食べながら、いろいろ話した。
高校時代のことや、卒業してからもいろんな相談に乗ってもらって、
すごい嬉しかったってこと。
そしたら、
「お前(=私)が最近他の奴ら(=当時からの付き合いの友達とか)と
そういう話をしてて、様子がおかしいって聞いた。なんかあったか?」
と聞かれた。

絶対他の奴らには言わないでって約束して、病気のことと余命のことを話した。
そして、先生にバイクを譲るってことも言った。
大事に乗り続けるって約束してくれた。
店を出てから、先生に「まだ元気あるか?」と聞かれた。
「座ってる分には大丈夫」と答えると、ちょっと待っててと言って、バイクで颯爽と走り去った。
何だかわからないけど、泣けた。

しばらく店の駐車場で待っていたら、先生がホームセンターでメットを買ってきた。
それを私にくれて、「後ろ乗って」と言った。
先生の腰に回した私の手はすごく頼りなくなっていて、
すぐに振り落とされそうだった。
「乗りたいけどムリですわ」と私が言うと、先生が、着ていたTシャツを脱いで、
私の手をくくりつけてくれた。先生も泣いてた。それから、初めて一緒に走った、近くの登山道へ行った。
そのときとは違って、すごくゆっくりだったけど。

展望台みたいになってるところでバイク停めて、ベンチで休んだ。
先生は
「このあと、すごく苦しむかもしれないし、辛いこともいっぱいあると思う。
そのときは呼んでくれれば行くから。
生きてて良かったと思えることを、まだまだ作ろう。
まだ○○(私の名前)は生きてるよ。諦めるな」
と言ってくれた。2人して号泣した。誰に話していいかわからないから、ここに書かせてもらいました。
週明けに病院戻ることに決めました。
正直、昨日告知されてからはじめて、まだ生きてたいと思えたから。
わからないけど、もう少しあがいてみます。
自己満な文章でごめんなさい。
行ってきます。(冗談でも「逝ってきます」とは書けません

ここの掲示板に↑これ書いたの私の友達。
「涙が出るほどいい話3.0」って板に書いてある。見た人、まだここにいるのかな。いないかも。

でもそいつが亡くなって今日で丸三年。長文だけど書かせてもらう。
亡くなった後、そいつのパソコン見たらデスクトップにテキストファイルがあって。
彼女の書き込みと、それに対するレスがコピペして保存されていた。

ファイルのタイトルは「涙が出るほどいい話3.0」。
彼女が亡くなる数日前にお見舞いへ行ったとき、「掲示板が見たい」って言ってた理由がわかった。
私たちは「大変なときに何言ってんだよ」と笑い飛ばしたんだけど。

彼女はレスに励まされたんだろうと思う。
感謝を書き込みたかったんだろうと思う。それ読んで、私は泣いた。
だから、彼女の変わりに言わせてもらう。あのとき、レスをくれた方々、ありがとうございました。
彼女は意識混濁状態にまでなりましたが、最期まであがき続けました。
皆さまに温かい励ましをいただいたおかげだと思います。
本当に、ありがとうございました。
彼女に代わり、お礼を申し上げます。

 

 

おまけの話

京都市伏見区桂川河川敷で2006年2月1日に無職片桐康晴被告が認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。
事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。
片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、一人で介護した。
母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。

生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。
カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、06年1月31日に心中を決意した。
「最後の親孝行に」片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。
片桐被告が 「すまんな」と謝ると、母は「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。
母の首を絞めて殺し、 自分も包丁で首を切って自殺を図った。

冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、 眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。

目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

裁判の中で片桐被告は、「私の手は母を殺める(アヤめる)ための手だったのか」と言葉を残した。
東尾裁判官は片桐被告に対し、
「尊い命を奪ったと言う結果は取り返しのつかない重大だが、経緯や被害者の心情を思うと、社会で生活し 自力で更生するなかで冥福を祈らせる事が相当。
被告人を懲役2年6ヵ月に処する…」

そして続いてこう言った

「…この裁判確定の日から3年間 その刑の執行を猶予する」

殺人(承諾殺人)で異例の執行猶予つきの判決を言い渡たされた。
そして被害者(お母さん)の心情に対し

「被害者は被告人に感謝こそすれ、決して恨みなど抱いておらず
今後は幸せな人生を歩んでいける事を望んでいるであろうと推察される」

判決の後、片桐被告に裁判長が「絶対に自分で自分をあやめる事のないようにお母さんのためにも、幸せに生きてほしい」
と言われ、片桐被告は深々と頭を下げ「ありがとうございました」と言った。

片桐被告に言い渡した後に東尾裁判官はこう言葉を残した
「本件で裁かれるのは被告人だけではなく、 介護保険や生活保護行政の在り方も問われている。 こうして事件に発展した以上は、どう対応すべきだったかを 行政の関係者は考え直す余地がある。」

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Posted by uti