自殺した有名な科学者と命を絶った理由

2017年5月10日

今回は、人類の発展に大きな貢献をしたものの、自ら命を断ってしまった科学者をご紹介します。全部で8名となります。

1.ヴィクトル・マイヤー(1848~1897年)

(wikimedia)

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ドイツの化学者で、有機化学・無機化学の発展に大きく貢献した人物です。彼の発明で最も有名なのが、気体の分子量を測定する「ヴィクトル・マイヤー法」です。この方法で、アセトン(除光液の成分)などの揮発性液体の分子量を容易に計測することが可能になりました。

(↓ヴィクトル・マイヤー法で使う装置)

(World of Chemical)

また彼は、化学兵器として知られるマスタードガスの合成方法を編み出しています。これだけでなく染料、医薬品、農薬として使われているチオフェン化合物を発見したのも彼です。

仕事中毒と自殺

(↓ドイツ・ハイデルベルクにあるヴィクトルの墓)

(wikimedia)

このような偉大な成果を残したヴィクトルですが、晩年は仕事中毒に陥り、神経を病んでいたことが分かっています。41歳のときにハイデルベルク大学の教授職につき、それが契機となって研究がよりハードなものになりました。

過労でノイローゼをわずらい、大量の薬を服用しなければ眠ることもできませんでした。しかし彼は仕事を休むことはなく、さらに研究に打ち込んだといいます。

精神状態はぼろぼろで、既に回復不能な状態まで神経を損傷していたとされます。その後、彼は重度のうつを発症し、48歳のときに青酸カリを飲んで自ら命を断ちました。

2.アラン・チューリング(1912~1954年)

(wikimedia)

アラン・チューリングはイギリスの化学者であり、数学者、論理学者、暗号解読者でした。その業績から、20世紀のイギリスにおける最も偉大な科学者とされています。

チューリングは現在のコンピュータの原理となる「チューリングマシン」を開発したことで知られています。チューリングマシンは、計算を数学的にモデル化するための仮想計算機です。実用化はされていないものの、コンピュータの基本原理となったきわめて重要な成果です。

彼はコンピュータの動作原理を発明したフォン・ノイマンと並んで、コンピュータの基礎を築いた功績者として賞賛されています。

(↓チューリングマシンの模型)

(wikimedia)

チューリングは24歳の時にこのモデルを提示し、36歳の頃にマンチェスター大学へと移って初期のコンピュータ開発にたずさわりました。それから1年後に、マンチェスター・マークワンという名前で、彼のたずさわったコンピュータが発表されることになったのです。

(↓開発に携わった黎明期のパソコン:マンチェスター・マークワン)

(wikimedia)

同性愛が原因で自殺か?

当時イギリスでは、同性愛は法律で禁止されていました。隠れた同性愛者であったチューリングは、1952年に他の男性と関係を持ったとして逮捕され、有罪判決を受けています。刑罰として、監獄に入るか女性ホルモンを注射して化学的去勢を受けるかの選択が与えられたと言います。

彼は入獄よりも、胸が大きくなるなど副作用がある後者の方を選んだのです。1954年1月8日、チューリングはその屈辱と刑罰の痛みに絶えきれず、青酸カリにひたしたリンゴを食べて自ら命を断っています。

このような事実があった後も、イギリスは13年間に渡ってこの法律は合法だとして、同性愛者を罰していたのです。

3.ルートヴィッヒ・ボルツマン(1844~1906年)

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ボルツマンはオーストリアの物理学者です。当時は、物質が原子や分子などの小さな粒子で出来ているということは信じられていませんでした。しかし彼は、この粒子の存在を仮定し、温度や圧力がこれら粒子のミクロ的な運動によって生じたものであることを説明しました。

彼は、数億以上におよぶ大量の粒子の動きを統計にとれば、温度や圧力、気体の広がる速度を予測できることを提唱したのです。この研究は統計力学と呼ばれ、彼が発端となって始まった学問です。

(↓例えば箱の中の粒子の運動が激しければ激しいほど、温度は高くなる)

(WikiPremed)

彼の研究の中で最も知られているのが、ボルツマンの関係式と呼ばれるものです。この関係式が、ミクロの世界(分子と原子)とマクロ(温度や圧力)をつなぐものとなりました。

現在ではこれらの法則は受け入れられ、彼は偉大な科学者として認められていますが、ボルツマンが生きていた当時は、受け入れられることがありませんでした。彼は生涯、その法則が正しいこと訴え続け、学会では激しい論争を繰り広げたとされます。

そのストレスのせいで、気分が異常に高揚する躁状態と気分が落ち込む鬱状態を繰り返す「双極性障害」で苦しむことになりました。こうして1906年、彼は静養中のイタリア旅行で、自ら首をくくったのです。

4.ウォーレス・カロザース(1896~1937年)

(wikimedia)

アメリカの化学者であるカロザースは、ストッキングの材料であるナイロンを発明したことで知られています。ナイロンは当時、「石炭と水と空気から作られ、鋼鉄よりも強く、クモの糸よりも細い」というキャッチフレーズで売り出されていました。

ナイロンの発見は画期的なものでしたが、彼がつとめていたデュポン社では企業秘密だったため、その成果の偉大さにも関わらず、カロザースは無名のままこの世を去っています。

(↓1940年、ナイロンストッキング発売当時の広告)

(oaktreevintage)

若い頃からうつ病で苦しんでいた

彼は25歳で大学の講師を任されるほど優秀でしたが、慢性的なうつ症状を抱えていました。ナイロンの開発という優れた成果を収めた後も「達成できている物は何もなく、才能が枯渇した」という事をしゃべっていたほどです。

彼はいつでも自分に自身が持てず、気分の落ち込みがひどい状態だったとされます。

彼はうつ病をまぎらわすためにお酒に頼っており、そのお酒がさらに彼の体調を悪化させました。そして1937年1月、彼が41歳の時に愛する妹が亡くなったことで、うつ症状は更に悪化しました。

それから3ヶ月後、カロザースはホテルの一室で青酸カリをレモンジュースに混ぜて飲み、命を断ちました。彼は、酸性の強いレモンジュースが青酸カリの毒性を強めることを知っていたのです。

5.ジョージ・イーストマン(1854~1932年)

(wikimedia)

ジョージ・イーストマンはアメリカの発明家で、カメラメーカー「コダック」の創業者です。彼は写真撮影に使われるロールフィルムを発明しました。

これまではガラス板に液体を塗って撮影するものが主流で手間がかかっていましたが、このカメラフィルムを使うことで、ボタン一つで撮影が可能となり、撮影速度が劇的に早くなったのです。

(↓初期のカメラフィルム)

(wikimedia)

彼のカメラフィルムは、後の映画用フィルム発明の種になったとされています。カメラフィルムは、現在ではほとんど役目を終えたものの、写真とカメラを一般に普及させた立役者となりました。

彼は写真事業で大きな富を築きましたが、私腹を肥やすことなく、事業で稼いだ数百億円を恵まれない子どもたちや大学に寄付しています。

彼は農家の子どもで、貧しい生活を送り、その上父や妹が亡くなったことで高校を辞めて働いています。おそらくこの経験が彼に奉仕活動をさせるきっかけになったのだと思われます。

晩年は脊柱管狭窄症で苦しむ

(↓黄色い部分が脊柱管)

(Weill Cornell Brain )

彼は晩年、腰部にある脊柱管(せきちゅうかん)が圧迫されて狭くなる「脊柱管狭窄症」にかかり苦しみました。立つのも困難で、すり足で歩くのがやっとだったといいます。

母親も亡くなる2年前に同じ病気にかかっており、その姿を見ていた彼は身体のおとろえと強まる痛みから憂鬱になっていたのです。

そして彼は1923年、77歳のときに「友よ、私の仕事は終わった。なぜ待つのか?」という遺書を残して、拳銃自殺しています。

6.エドウィン・アームストロング(1890~1954年)

(wikimedia)

アームストロングは、FMラジオや業務無線などで使用されるFM(周波数変調)を発明したことで知られています。

彼の発明の多くは他社から訴えられ、特許紛争になっています。彼は完全に巻き込まれた側であり、実際には彼が発明したものを自分たちが発明したのだと主張してくる者が出てきたのです。

特許紛争による長年の法廷闘争で、彼はお金を使い果たし精神的にも疲れ果てました。そして1954年、63歳のときにアパートの13階から飛び降りて亡くなっています。

彼が亡くなった後も、特許を巡る争いは妻に受け継がれ、最終的に勝利を収めています。

7.ハンス・ベルガー(1873~1941年)

(wikimedia)

ベルガーは、ドイツの神経科学者であり、精神科医です。彼は初めて人間の脳の「脳波」を測定しました。そして脳波の測定により、アルファ波を発見したことで知られています。

アルファ波はリラックス時に生じる脳波であり、脳や意識の状態で変わります。そのため、意識障害・認知症・精神病などの補助的な診断方法として使われています。

彼は脳波の発見により、1938年に心理学の名誉教授となっています。しかしその後の第ニ次世界大戦で、ナチスからユダヤ人スタッフの解雇を求められ、それを拒否したことで、研究職への引退を命令され、それを苦に首吊り自殺をしています。

8.笹井芳樹(1962~2014年)

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彼は、ヒトの受精卵を培養して得られたES細胞から、世界で初めて網膜の作成に成功したことで知られています

(↓写真のRetinaが網膜)

(wikimedia)

これだけでなく、ES細胞を脳下垂体や視床下部の細胞に分化させることへも成功し、再生医療への発展に大いに貢献しました。これらの研究で、彼は日本を代表する科学者となりました。

しかし2012年12月、彼の勤める理研CDBで、小保方晴子が採用されたことをきっかけに彼の人生は暗転したのです。

笹井氏は彼女の指導役となり、分化する万能細胞「STAP細胞」を研究しました。その研究の中で、彼女は実験結果をねつぞうし、STAP細胞を発見したという嘘の成果を産み出したのです。彼女を信頼していた笹井氏は、科学論文の最高権威であるネイチャー誌に小保方等と共同でこの研究成果を発表しました。

(↓STAP細胞の作成方法、iPS細胞との比較:簡単で応用が効くとしてiPSより優れているという発表がされていた)

(wikimedia)

その後、このSTAP細胞に関して様々な疑義や不正が指摘され、小保方氏が作成した論文画像の改ざんが明らかとなったことで、論文は撤回されました。彼はその責任が追求される中、2014年8月5日に首吊りによる自殺で亡くなりました。

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雑学

Posted by uti