誰も死なない泣ける話(感動した話14選)
今回は私が感動した話を厳選してご紹介していこうと思います。
①アルバム
うちは貧乏な母子家庭で、俺が生まれた時はカメラなんてなかった
だから写真の変わりに母さんが色鉛筆で俺の絵を描いて、アルバムにしてた
絵は上手じゃない
ただ、どうにかして形に残したかったらしい
ほぼ毎日、赤ん坊の俺を一生懸命描いてた
絵の隣に『キゲンが悪いのかな??』とか『すやすや眠ってます』ってコメント付きで
小学四年生の時、家に遊びに来た友達数人に、そのアルバムを発見された
めちゃくちゃ笑われて、貧乏を馬鹿にされた
友達が帰って直ぐ、俺はアルバム三冊をバラバラに破いてゴミ箱に捨てた
パートから帰って来た母さんがそれを見つけて、泣きだした
破いた理由を言っても、変わらず泣き続けた
翌朝起きると、居間で母さんがゴミ箱から絵の破片を集めてセロハンテープでとめてた
「恥ずかしい思いさせてごめんね。でもね、これ、母さんの宝物なんよ」
申し訳なさそうに優しくそう言われると、涙が溢れ、俺はごめんなさいと謝った
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②初任給の物語
某信用金庫に勤める二十歳の短大卒の女性が、初月給を親のために使って喜んでもらおうと、両親をレストランに招待しました。
お母さんは前日から美容院にセットにいったりして大喜び。
ところが、お父さんはブスッと不機嫌な顔をしてついてきた。
「何を怒っているの」とたずねたら、
「一回の晩飯ぐらいで、俺が二十年間苦労して育ててきたことが帳消しになると思ったら、大間違いだぞ」と・・・
「そんなこと、どうして言うの?」と思ったけど、口に出しませんでした。
今日はめでたい日だし、お母さんは横でもうパクパク食べ始めているし、今さら怒って帰れない。
しばらく天井を見つめていたお父さんが、ポツリと
「ビールぐらい、飲んでもいいか?」と言った。
「誰がビールなんかついでやるもんか」、
そう思ったけど、つがなきゃしょうがないなと思って彼女はお酌をした
ところが、コップを差し出したお父さんの手には、二十年間勤めたセメント工場での白い粉が、びっしり。
手の甲のしわと毛穴にまで詰まっていました。
それに気づいた彼女は
「お父さんゴメンネ」
と言いたかったけど、どうにも言葉になりませんでした。
自宅に戻ったその後、彼女がトイレに行こうとして両親の部屋の前を通りかかったら、中から話し声が・・・
どうせまた、お父さんが私の悪口を言っていると思ったら、それが違うのです!
「俺も五十いくつになるけど、今日みたいにおいしい晩ご飯は初めてだった。
あいつの顔を見ていたら、
俺は涙があふれそうになったから、
天井しか見れなかったけど、
なあお前、本当にいい娘に育ったなあ」。
その瞬間、彼女はそこから先に足が進みませんでした。
そのまま自分の部屋に帰って、頭から布団をかぶって「バンザイ!」のポーズで朝まで泣き続けました・・・
③料理屋最高の幸せ
小さな食堂(夫婦と息子さんで経営。バイトは私だけの合計4人でバイトをしています。
基本的に調理は旦那さんと息子さんがやっているのですが、付け合せの人参のグラッセなど簡単なものは私が作っています。
昨日最後に来たお客さん(親子3人)が
「この人参のグラッセを作ってる人はどなた?」
と聞いてきました。
私は不味いと苦情を言われるんだと思い、
震えながら「私です」
とお客さんがいるテーブルに行きました。
お客さんは私をじろじろと見て
「そう、あなたが作ってるの…」
と呟きました。
私はもう怖くて怖くて、手をぎゅっと握ってその視線に耐えていました。
そうしたら奥さんの方が
「うちの子、人参が大嫌いでどんな料理にしても絶対に食べないの」
と言いました。
「それなのに、このお店のグラッセだけは美味しいっていつも嬉しそうに食べるのよ。
良かったらレシピを教えてくれないでしょうか」
とメモ帳とペンを私に差し出してきました。
そういうことは店長に確認を取らないといけないので、冷静を装ってと厨房に行きましたが、実際は嬉しくてぼろぼろ泣いてた。
厨房に行くと店長は
「話は聞いてた。レシピは教えてやっていいぞ」
とレシピのコピーをしてくれていました。
そして「これも持っていけ」
とグラッセとうちの一番の自慢のコロッケを渡してくれました。
お客さんにレシピと「これは気持ちです」と料理をテーブルに載せると、
子供は満面の笑みで「ありがとう!」
と、夫婦も「このコロッケ凄く美味しくて大好きなんです」って美味しそうに食べてくれました。
このことが本当に嬉しくて嬉しくて、お客さんが帰った後、思わず大泣きしてしまった。
店長が「料理屋は客に美味いと言われるのが最高の幸せだ。
だから今のお前は最高に幸せなんだぞ」と
言って、私が泣き止むまでずっとお店にいてくれました。
お店もここにくるお客さんもみんな大好きだ。
④「悪かったね、ありがとう」
おじいちゃんは老いから手足が不自由でトイレも1人では厳しい。
だから、いつもはおばあちゃんが下の世話をしてた。
おばあちゃん以外が下の世話をするの嫌がったからだ。
ある日、家に私とおじいちゃん2人になった。
おばあちゃんが倒れてしまい母と兄は病院、父は会社から直行したからだ。
おじいちゃんと留守番してると申し訳なさそうに
「ももちゃん、悪いんだがトイレに…」って言った。
私は本当に馬鹿だなって思った。
一人じゃ行けないの知ってたくせに気が付いてあげられないなんて
孫、それも女には言いづらかっただろうなって。
トイレに行くとパンパースが小と大で汚れてた。
たくさん我慢させてしまった。
私はおじいちゃんの気を反らそうと学校であった笑い話を精一杯明るく話した。
お風呂場で体を洗ってパンパースつけてホッとした。
同時におばあちゃんは毎日これをしてるんだと思うと何とも言えない気持ちになった。
そして「悪かったね、ありがとう」って五千円をくれようとした。
おじいちゃんは本当に馬鹿だなって思った。
私が赤ちゃんの時、両親は共働きでした。
おしめを変えて育ててくれたのは貴方じゃないですか。
幼稚園だって塾の送り迎えだってしてくれたのは貴方じゃないですか。
あれは無償の愛でしょ?
私はおじいちゃんが大好きだよ?だからお金なんかいらないんだよって言った。
2人してちょっと泣いた。
その日からは介護の人を頼んだり、家族にも頼ってくれたりでおばあちゃんの負担も減った。
⑤親から「おめでとさん」って、
もう10年も前のことだけど、新卒、千葉在住、手取り18万くらいで、家に3万入れていた。
5万にしろといわれて出て行った。
一人暮らしをすれば会社から4万ほど手当が出るので、そっちの方が得だったので。
5足す4で9万あれば一人暮らしできたから。親元より自由だし。
あのころは親も何でか金の亡者のようになにかにつけて別料金をよこせとうざかったし、
私も親に対し感謝の気持ちでたくさん払ったりする気がなかった。
家事も理不尽に手伝わされて(兄や弟に比べて多かったのがいやだった)、新入社員の身には体力的にもつらかった。
それからはずっと家にあまり寄りつかず、結婚することになり、
結婚費用や新居のお金も自分の貯金から出した。
親から「おめでとさん」って、200万の郵貯をもらった。
独身時代、家に入れてた分だった。もらえないだろ……….
⑥ばあちゃんのぼけは日に日に進行して
ばあちゃんのぼけは日に日に進行してゆき、次第に家族の顔もわからなくなった。
お袋のことは変わらず母ちゃんと呼んだが、それすらも自分の母親と思い込んでいるらしかった。
俺と親父は、ばあちゃんと顔を合わせるたびに違う名前で呼ばれた。
あるとき俺がお茶を運んでいくと、ばあちゃんは俺に
「駐在さんご苦労様です」、とお礼を言って話しはじめた。
「オラがちにも孫がいるんですけんど、病気したって見舞一つ来ねえですよ…
昔はばあちゃん、ばあちゃん、てよくなついてたのにねえ…」
そう言ってばあちゃんが枕の下から取り出した巾着袋には、お年玉袋の余りとハガキが一枚入っていて、
よく見てみるとそれは、俺が幼稚園の年少のとき敬老の日にばあちゃんに出したもので、
「ばあちゃんいつまでもげんきでね」
なんてヘタクソな字で書いてあったものだから、
俺はなんだか悔しくて悔しくて、部屋を出た後メチャクチャに泣いた。
⑦あんたの見つけた趣味なんだから
3年前のある日、両親が離婚。俺と弟が母さんについていきました。
母さんは今まで専業主婦だったから仕事なんて全然できない。
パートを始めるも一月もしないで退職の繰り返し。家計は苦しくなる一方。
当時高校生だった俺のバイト代だけじゃやっていけるわけも無く、高校を中退して現場の仕事に就きました。
その際に少しでも家計の足しになればと漫画、ゲームをすべて売り、家にあるエフェクター、ベース、ギターも売ろうとしました。
でも、母さんは
「あんたの見つけた趣味なんだからバンドだけは続けなさい」
と、楽器の売却には猛反対しました。
学校を辞めたときにバンドも辞めたから楽器があっても意味がないと思い、俺は売る気まんまんでした。
でも母さんがあまりにしつこく言うのでベースだけ一本残しました。
その後、仕事仲間にバンドをやろうと誘われて、バンド活動を再開しました。
手元にあるのはアイバニーズのしょぼいベースのみ。
アンプもシールドも無い。シールドが無きゃスタジオ練習もできないので
楽器屋の600円の激安シールドを一本だけ買いました。
それ以来ずっとチョッケルです。
話がそれるんだけど今年の誕生日に母さんが
「いつも無理して頑張ってくれてるから・・・」
と言って少しずつ貯めていたパート代でモンスターケーブルを買ってくれました。
何やってんだよバカ。家計が苦しいのに。
楽器の事シロートなのに楽器屋の店員に色々聞いただと?
無理してんじゃねえよ。そんな金あるなら自分の服でも買えってのに・・・
やつれた顔で精一杯笑いながら
「誕生日おめでとう。まだ若いんだから自分のやりたい事頑張りなさい。」
恥ずかしながら泣いちゃったよ。もう体の水分全部出るくらいw
中学の卒業式以来だよ、親の目の前で大泣きしたのは。
⑧ろう者の嫁に「愛してる」って言ったら
嫁は妊娠中。もうすぐ八か月。
西日の部屋で、ソファに座ってお腹を撫でてる嫁を見てたら、なんとなく言いたくなって
後ろから抱き締めて「愛してる」って言った。
ただ、俺の嫁、ろう者なのね。なんも聞こえないの。わかんないの。
わかんないはずなの。
でも、嫁、振り返って
手話で
《わたしも》
って言ってくれた。
俺、明日もがんばれるわ。
⑨部屋に小包が届いた。
何年か前、一人暮らしをしてた時、部屋に小包が届いた。
一緒に入っていた手紙に
『○○様 お元気ですか、○○が家を出て半年がたちました。
家の中は火が消えたようです。
じいちゃんも、○○の事をしんぱいしています
早くりつぱな看ご婦さんになって帰って来て下さい。
ばちゃんも元気だから、しんぱいいりません。
○○が元気でりつぱになるやうにばちゃんは毎日仏だんにおがんでいます。
気をつけて、また今度かえって来て元気な顔を見せて下さい。
ばちゃん より』
手紙には、折り目が付いた1万円が同封されていた、農家の嫁の少ない年金で、生活も楽じゃ無いのに…
読みながら、届いた漬物をかじったら…
急に帰りたくなって、婆ちゃんに甘えたくなって、わんわん泣いた。
死ぬ気で勉強して働いて、看護婦になって地元に帰った。
今もその手紙と一万円は大切に残している。
⑩メニューの漢字が読めない
20年前ぐらいの前の話
当時俺の家はいわゆる片親ってやつで、すげぇー貧乏だった。
子供3人養うために、かぁちゃんは夜も寝ないで働いてた。
それでもどん底だった・・・
俺は中学卒業してすぐ働きに出た。
死ぬほど働いた。遊んでる暇なんてなかった。
1年ぐらいして同級生に久しぶりに会った。
飯食いに行こうって話になった。
メニューの漢字・・・読めなかった。
読めたのは、一つだけカタカナで書いてあった「オムライス」だけ。
同級生は「焼きそばとごはん」って注文した。
無知な俺は「じゃあ俺はオムライスとごはん」って店員に言った。
店員、固まってた。
クスクスって笑い声も聞こえてきた。
そしたら同級生
「さっきのキャンセルね!!俺もオムライスとごはん!!」
・・・
店出た後、同級生が一言
「うまかったな」って言った。
「仕事がんばれよ」って言ってくれた。
泣けてきた
心の底から人に「ありがとう」って思った。
そいつは今でも親友です。
⑪まさかこんな子が
半年ほど前に、「強くなりたい」と自分から入部してきた子。
はっきりいって運動神経もなく、体もひ弱です。
あまりここに書くのもはばかられるのかもしれないんですが、
めちゃくちゃ切ない過去を持つ子供なんです。
なんでも、父親に虐待されて、母親と一緒に実家に逃げてきたとか。
母親が殴られて泣かされるところを、何度も見てきたそうなんです。
それで、「母親を守れるくらい強くなりたい」と。
自分の足で相撲道場をしらべてやってきたそうです。
こんな子供が、本当にいるとは・・・・。
家庭環境の話など、聞いていて目頭が熱くなりました。
稽古は、驚くほど真剣に取り組みます。
一度でも倒されると、「もういっちょお願いします!」と立ち上がる。
おでこから血が流れても、かまわず必死にぶつかる。
申しあいの時も、積極的に前にでて取り組みます。
ゲロを吐いて、「少し休め」といっても、「まだまだ!」といって稽古を続ける。
泣きそうになるのを奥歯をかみ締めて我慢している姿を見ると、「絶対強くしてあげたい」と思うようになります。
ただ、体格が悪いのと、ちょっと気が弱いため、まだまだ勝てるレベルには到達していませんが。
しかし、必死に稽古を頑張っている姿は、周りの子供にも少しずつ影響を与えはじめています。
家でも努力しているようで、毎日四股腰割りを100回以上するそうです。股割がだんだんとできるようになってきました。
しかも、家ではお母さんのために皿洗いをしたり、肩をもんであげたりするようです。
まさかこんな子が現代にいるとは・・。
この子の成長が楽しみです
⑫あるレジ打ちの女性
その女性は、何をしても続かない人でした・・・
田舎から東京の大学に来て、サークルに入っても、すぐに嫌になって、次々とサークルを変えていくような人でした・・・
それは、就職してからも同じでした・・・
最初の会社は3ヶ月
上司との衝突が原因でした・・・
次の会社は半年
自分が思っていた仕事と違う、というのが理由でした・・・
そんなことを繰り返すうちに、
彼女の履歴書には、わずかで辞めてしまった会社の名前がずらっと並ぶようになってしまいました・・・
そうなるとどの会社も正社員としては雇ってくれません
彼女は派遣会社に登録しました
しかし、派遣会社でも長続きしません・・・
履歴書には、また、派遣先のリストが次々と追加されていきました
今度の派遣先はスーパーでした
仕事内容は「レジ打ち」
今のようにバーコードなんてない時代です
当時のレジは、電卓のように、ひとつひとつキーを打たなければならなかったのです
勤めはじめて1週間…
仕事に慣れてきた彼女は、だんだん飽きてきてしまったのです
「私はこんな単純作業をするために、いるのではない!」
辞表を書いてみたものの、正直なところ、彼女自身も、仕事も長続きせず、我慢のできない自分が嫌いになっていました・・・
どうしようかと思っていた矢先にかかってきた田舎の母親からの電話
「帰っておいでよ」
母のやさしい声に、決心がつきました
もう、田舎に戻るつもりで部屋の片づけを始めたのです・・・
片づけをはじめてしばらくすると、昔の日記が出てきました
パラパラとめくっているうちに、小学生の時に書いた言葉が、彼女の目に飛び込んできたのです
「ピアニストになりたい」
…彼女は思い出しました
ピアノの稽古だけは、辞めずに続けていたのです
そして「夢を追いかけていた心」を思い出したのです
「あんなに希望に燃えていた自分が今はどうだろうか。情けない。そして、また逃げようとしている…」
彼女は泣きながら母親に電話をしました
「私、もう少しここで頑張る」
辞表を破り、スーパーに出勤した彼女はレジ打ちをしながら、ある考えが浮かびます
「ピアノも練習を重ねるうちに、キーを見なくても打てるようになったんだ。私流にレジ打ちを極めてみよう!」
彼女は数日で、ものすごいスピードでレジ打ちができるようになりました
すると、今まではレジのボタンしか見ていなかった彼女が今まで見もしなかったところへ目が行くようになったのです
「あのお客さんは昨日もきていたな」
「この人は、閉店間際に来る」
「この人は、高いものしか買わない」
そんな風にお客さんを見ることが彼女の楽しみのひとつになりました
…そんなある日、いつもは安いものばかりを買うおばあちゃんが、5,000円もする立派なタイを持ってレジに来たのです
ビックリした彼女は思わず声を掛けます
「今日は何かいいことあったんですか?」
するとおばあちゃんは嬉しそうに言いました
「孫がね、水泳で賞を取ったから、お祝いなんだよ」
彼女は、嬉しくなって言いました
「それはおめでとうございます!」
お客様とのコミュニケーションが楽しくなった彼女は、すっかりお客さんの顔と名前を憶え
「○○さん、今日はこのチョコよりも、もっと安いチョコが出てますよ」
「今日はマグロよりもカツオのほうがいいわよ」
などと言うようになったのです
彼女はだんだんこの仕事が楽しくなってきました
そんなある日のこと
彼女が忙しくレジ打ちをしていると
店内放送が響きました・・・
「本日は、混み合いまして、誠に申し訳ございません
どうぞ、空いているレジにお回りください」
しばらくすると、また放送が響きました・・・
「重ねて申し上げますが、どうぞ、空いているレジにお回りください」
…3回目のアナウンスを聞いて、彼女は何かおかしいと気づき、周りを見渡して、
…驚きました
他のレジが全部空いているのに、彼女のレジにしかお客さんが並んでいなかったのです・・・
…店長があわてて、お客さんに駆け寄り声を掛けます
「どうぞあちらへお回りください」
するとお客さんは、
「放っといてちょうだい! 私はここへ買い物に来ているんじゃない!
あの人としゃべりに来ているんだ!
だからこのレジじゃないとイヤなんだ!」
その瞬間、彼女はワッと泣き崩れました・・・
他のお客さんも言いました
「特売は他のスーパーでもやっているよ
だけど私は、このおねえさんと話をするためにここへ来ているんだ
だからこのレジに並ばせておくれよ」
彼女はボロボロと泣き崩れたまま、レジを打つことができませんでした・・・
仕事というのはこれほど素晴らしいものなのだと初めて気づいたのです
そうです
すでに彼女は、昔の自分ではなくなっていたのです
⑬卒業します!
俺ん家は俺と母親、それとおはあちゃんの三人で暮らしてる。
親父は離婚していない。
パチンコとかやって借金をつくる駄目な親父だった。
母子家庭ってやっぱ経済的に苦しくて、母さんは毎日働いてる。
おばあちゃんは汚い服ばっかり着てる。
俺は行きたい大学があるけど、金がかかるからそこだけ受けて駄目だったら就職しようと思ってた。
それで、俺大学落ちちゃったんだ。
「すぐに就職先を見つけなきゃいけないな」
って考えてたら、俺の部屋におばあちゃんがやってきた。
「〇〇、大学落ちちゃったんだってね」
と、おばあちゃん。
「うん、でもいいよ。俺、就職するからさ」
ってちょっぴり強がって俺は笑ってみせた。
そしたらおばあちゃん、いつから使ってるか分かんないような汚い手提げ袋から、札束を出してきたんだ。
「え…何このお金…」
って俺が絶句してたら、
「〇〇、行きたい大学があるんじゃろ?だったら行きんさい。
お金のことなら心配せんでええ。まずこれで予備校行きんさい。
年寄りは金持ちやで。それに、ちょうどばあちゃんな、何かに使おうて思ってたんじゃ」
と、そう言ってシワシワの手で札束を俺に握らせた。
最後、俺の部屋から出るとき「頑張りんさい」って言って出てった。
それから俺、母さんにおばあちゃんのこと聞いたら、
「おばあちゃんね、あんたが産まれてからずっと年金コツコツ貯めてたみたいだよ。私も知らんかった」って。
マジ泣いたよ。
なんで金あんのに汚い服ばっか着てる意味とか、さっき俺の部屋で喋ったこととか思い出して、本当に泣いた。
もう、本当に頑張るから。
今は肩を揉むことぐらいしかできんけど、絶対に大学に合格するから。
それと、俺は今日で2ちゃんねる卒業だわ。
長い間、本当にお世話になりました。勉強がんばります
ノシ
⑭サーカス
私がまだ十代のころのことです。
サーカスの入場券を買うために、父と私は長い列に並んで順番を待っていました。
ようやく、私たちの前にいるのは、あと一家族だけとなりました。
私はその家族に強く心を引かれました。
その家族には子どもが8人もいて、いちばん年上の子どもでも12歳ぐらいにしか見えません。
あまり裕福そうではなく、着ている服も上等とはいえませんが、きれいに洗濯されています。
そして、行儀よく手をつないで、両親の後ろにきちんと二列に並んでいました。
期待に胸をはずませた子どもたちは、ピエロのこと、象のこと、
そして今から見るいろいろな演技のことを、嬉しそうに話していました。
どうやら、サーカスを見るのはこれが初めてのようです。
子どもたちにとって、今日のサーカスは生涯残る素晴らしい思い出となることでしょう。
子どもたちの前には、両親がとても誇らしげに立っていました。
妻は夫の手をしっかりと握って夫を見上げ、
夫も暖かいほほ笑みを浮かべて、妻を見つめ返していました。
売場の女性が、入場券の枚数をたずねました。
父親は胸を張って答えます。
「子ども8枚と大人2枚ください。これで家族にサーカスを見せてやれますよ」
入場券の合計金額が告げられました。
すると、妻は夫の手を離し、黙ってうつむいてしまいました。
夫のくちびるも震えています。
彼は、また聞き返しました。
「いくらですって?」
売場の女性は、もう一度答えました。
その父親には、それだけのお金がなかったのです。
サーカスを見るにはお金が足りないということを、後ろにいる8人の子どもたちに、どうやって告げようというのでしょう。
ことのなりゆきを見ていた私の父は、ズボンのポケットに手を入れました。
そして20ドル札を取り出し、なにげなく落としました。
父は腰をかがめてそのお札を拾い上げ、その前の男の肩を軽くたたいて、こう言いました。
「失礼ですが、ポケットからこれが落ちましたよ」
その男は、わたしの父が何をしようとしているのか、すぐに察しました。
彼は人からほどこしを受けるような人ではなかったかもしれません。
でも、その時は、私の父の助けを心から感謝して受け取ったのです。
20ドル札を差し出す父の手を両手でかたく握りしめ、その目をじっと見つめました。
くちびるは震え、ほおには涙が伝わり落ちています。
「ありがとう。
ありがとうございます。
これで助かります」
父と私は車に戻ると、そのまま家に帰りました。
その晩、私たちはサーカスを見ることはできませんでした。
でも、それでよかったのです。
ディスカッション
コメント一覧
はじめまして!いい記事ですね♪
私もYOUTUBEで「泣ける!感動の実話ちゃんねる。。。」というチャンネルを運営してます。
https://www.youtube.com/channel/UCV9GAU69rRkSa–HelVvgCw
コンセプトが近いので、よかったら私の動画も使って頂ければと思います。
動画は掲載自由なので、ご自由にご使用ください♪
使用の際に高評価とコメントをいただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
チャンネル登録しました
貧乏人を安っぽい感動話に使うネタが多くてなんだかなあ…
貧乏だとお金の計算とか出来ないのかな?長期的に積み立てて未来を設計するとか。
悲しい気持ちになりました。義務教育とかで生活スキルとかを教えて欲しい…
3番はバイトは私だけと書いてあるのに計4人でバイトをしてるっておかしくないですか?
夫婦って書いてない?
あ、バイトの人数の話か。すみません・・・。
たしかに
感動しました
うちも私が中学の頃父が無職で母のパート代で生活していました。そんな経済状況なのに祖父が定年退職して、遅くに出来た叔父はまだ高校生でお金がかかるからとうちに毎月五万の援助を強要し仕方なく払っていました。
その頃のクリスマス、母は普段我慢させている私にと無理してなけなしのお金でその頃流行っていたネームスタンプ付きのシャーペンをプレゼントしてくれました。
勿体無くて使えないと大切にしていました。
苦労ばかりしていた母が胃癌で亡くなって来年で七回忌です。
来世では幸せになって欲しいです。
⑩のメニューが読めない話は流石にないやろと思うわ。
このコピペを初めて読んだ時、不登校で中学入学1ヶ月後くらいから学校行ってないし授業もほぼ受けていない状態の中学2年生だったけど、ファミレスや近所の定食屋のメニューは普通に全部読めたし。
感動する話のコピペ集でちょうちょいまとめられてるけど、創作にしても下手すぎるだろって思う。