みんなが聞いた、亡くなる前の忘れられない「最後の言葉」
海外の人達がシェアした、故人の忘れられない最後の言葉をご紹介していこう。
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私のトラックの前で信号無視をした16歳の少年は、「本気でクソ痛い」と言っていた。彼は1986年4月25日の午後2時半頃、運転免許を取得したお祝いに酒を飲んで運転していた。
この事故を目撃した私は、1ヶ月以上もトラウマで車を運転できなかった。心理セラピーを受けるまで、食事も自分のこともままならかなった。
交通事故に遭った女性に応急処置をしていたときのこと。彼女は気絶する直前にそのように言った。彼女は妊娠5ヶ月だった。
彼女のあのとき声は、一生忘れられないだろう。
残念ながら、彼女とそのお腹の赤ちゃんは助からなかった。もしこれをあなたが読んでいたら、シートベルトは必ず着用してほしい。
祖父は死の間際に「ニッキー、お前は俺に会いに来たのか」と言いました。
ニッキーは、10年以上前に亡くなった最愛のボーダーコリー犬でした。私は、ニッキーが祖父のために会い来たと思いたいです。
今でもその言葉を思い出すと、涙が出そうになります。私もニッキーが大好きでした。
「今すぐにでも逝きたい」
何日も機械で生かされていたおじいちゃんがそう言ったのは、家族が最後にお別れに来た直後のことでした。
病院で祖父は、「いつか自分が死ぬときに、自分が犯した失敗や愚かな姿を後悔することはない。後悔するべきことは、やってみなかったことやチャンスを逃したことだ」と言いました。私はそのとき16歳でした。
私は祖父のアドバイスを心に刻みました。幸運なことに私は現在、手の施しようがない末期癌ですが、後悔のないように生きたことで、この状況に耐えられています。
弟は一時的に意識を取り戻し、私に 「夢を見ていた」と言いました。その後、すぐに亡くなりました。体が動かなくなるALSを患って9年でしたが、最後に良い夢が見れていたらいいなと思いました。
これは18年前のことですが、今でも毎日のように弟に会いたいと思っています。
双子の妹が、祖父の最後の言葉を聞きました。
それは「お願いだから一人にしないでくれ、朝までには死んでしまうから」というものでした。
病院は家族の宿泊を許さず、妹を帰しました。それから約2時間後、祖父は亡くなりました。それ以来、妹は罪悪感を感じ続けているようです。
私は介護員として働いていました。結婚して70年になる92歳の女性が、夫を1週間前に亡くしました。夫は、妻が”死”を怖がっていたので、「バラの花が咲いている木のそばで待っているよ」と言って亡くなったそうです。
そして彼女の番がやって来たとき、彼女は何日かぶりに目を覚まし、目を開けて「あなたがそこで待っていると思っていたわ」と言って息を引き取りました。
そのとき私は、死んでもなお、一緒にいるべき人がいるのだということを実感しました。
何度も脳卒中を起こし、介護施設で暮らしていた父の臓器は限界を迎えていました。父は治療を受けないことに固執していて、私たちはその方針を尊重していたので、父の命はもって数日だと知っていました。
昏睡状態に陥る前、最後に父を訪ねたときに、私はいつものように「愛してる」と言って帰りました。
すると、父はこう言いました。
「私も愛してるよ」
そのとき既に、脳卒中の影響で言葉が不自由になっていたため、数ヶ月間、ほとんど話すことが出来ていませんでした。そして、父が私たちをどれだけ愛しているかは分かっていましたが、あまり口にする人ではありませんでした。
父の言葉は、私に安らぎを与えてくれました。愛する人が亡くなったとき、その言葉は人が求める最高のものだと思います。
友人が癌で亡くなったとき、私はその部屋にいました。友人は何時間も意識が戻ったり、失ったりしながら、訳のわからないことをしゃべっていたのですが、突然、私の名前を叫んで、「恐怖に人生を支配されるなよ、いいかい、相棒」と言ったのです。
友人はその数時間後に亡くなりました。私は、友人の最後の言葉を紙に書いて財布に入れ、毎日見ています。友人が一番恐れていたのは、自分が忘れられてしまうことだったので、私は毎日、友人の言葉を思い出すようにしています。
去年のことですが、私と祖父はとても仲が良く、いつも祖父を尊敬していました。祖父は肺がんで死にかけていて、末期でした(モルヒネを投与されていたので、祖父は毎日ほぼ眠っているだけでした)。
祖父が亡くなった日は、悲しいことに私の誕生日だったのですが、彼の最後の言葉は「誕生日おめでとう、愛してるよ」でした。
「寝かせてください…昼寝しているだけですから、大丈夫ですよ・・。」
私が経営していたコンビニの駐車場で、朝5時45分に横になっていた男性です。男性は、なぜ自分が心肺蘇生されているのか分かっていないようでしたが、血栓が原因で心臓発作を起こしていました。
救急車を待っている間、彼の手を握っていた私に話した最後の言葉でした。
「息が出来ない」と「助けてくれ」の2つが、心に残っています。看護師になって一番つらいことは、すべての患者さんを死から救えないことです。
「私が死ぬと思っているからだろう。でもそんなことにならないよ」と私に向かって言っていました。ですがその後、父は一度も言葉を発することなく昏睡状態に陥り、3日後に亡くなりました。頑固な人だったな。
最後に言ってくれたことは、「最後にお前の笑顔が見たかった」でした。今でも涙が出てきます。
祖母は死の床で、「蝶を見かけたら挨拶しなさい」と言いました。祖母は、その蝶が自分であることを言っていました。
祖母は私が12歳の時に亡くなりました。 私は26歳になった今でも、蝶を見るたびに挨拶をしています。
ディスカッション
コメント一覧
泣ける。
ええ話
「どうせなら半年くらいで静かに死にたいわ」
そう言ってた祖母は倒れて本当に半年後、静かに自宅で亡くなりました。
遠くの仕事先から急ぎ帰宅した私の手を握った時「明日も仕事か?頑張れな」と笑顔を向けたのを最期に目を閉じました…
私が帰って来るのを待ってくれてたのだと思ってます。
今でも祖母の優しい笑顔を忘れた事はありません。
ずっと大好きです。
自分は祖父母が亡くなる時に会わなかった。
罪悪感は消えない
「息が出来ない」と「助けてくれ」の2つが、心に残っています。看護師になって一番つらいことは、すべての患者さんを死から救えないことです。
コロナか・・・
私の親戚も看護師です。医師もいます。
同じように今、陰で悩み泣く事もあります。
私に出来る事はコロナにならないように日々気を付ける事、そして親戚同様にあなたのように医療従事者の方々に心から感謝し祈る事です。
頑張ってみえる方々にこれ以上頑張れなんて言いません。
どうぞご自分のお体も大切にして下さい。
この場所から少しでも安寧を願っております。
蝶々はうちの祖母も言ってたな。。。祖母が亡くなってお仏壇に蝶々が飛んで入っていった。
数年後祖父のお通夜で蝶々が現れて翌日の火葬場でも蝶々が現れた。どの蝶々も黒に赤い模様の蝶々だったなあ。