驚くべき結合双生児たち

2019年3月15日

体の一部が結合した双子、結合双生児は、20万件の出生あたり1組の割合で産まれるという。このような双子は、どんな状態でどのような生活を送っていたのか、今回は様々な結合双生児のケースをご紹介していこう

1.ローリ&ジョージ・シャッペル

(via Times News)

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1961年に生まれたローリとジョージは、頭部が結合した双子である。二人は反対方向に頭が付いており、脳の30%を共有している。だが二人は全く異なる性格だという。

そのため二人は、お互いのプライベートを尊重した生活を送っている。ローリが23歳のときにボーイフレンドと迎えた初夜では、ジョージはその行為を静かに見守っていた。またローリがカレシとデートするとき、ジョージは読書をしてお互いに顔をあわせないようにしていたという。

(via The Sun)

また二人とも女性であったが、ジョージは性同一性障害だったため、元のドリという名前から現在のジョージに改名し、男性になっている。

片方はハリウッド映画の歌手に

【トークショー出演時の動画】


体はくっついていたが、仕事は全く別々だった。ジョージはカントリー・シンガーとして活躍し、アメリカだけでなく日本やドイツも訪れた。1997年にはロサンゼルスのミュージックアワードで、カントリーシンガーの新人賞を獲得し、ハリウッド映画『ふたりにクギづけ』のエンディングを歌った。

一方ローリは、ジョージのサポート役としてだけでなく、芸能活動の合間をぬって、クリーニング屋で働いた。ローリはジョージのファンで、他のファンと同じようにお金を払って彼のコンサートに参加していたと語っている。また彼がパフォーマンスをしているときは、透明人間になったかのようにその姿を静かに見守っていたと言う。

2.チャン&エン・ブンカー兄弟

(via wikipedia)

1811年にタイで生まれた二人の兄弟は、サーカスの見世物として多くの人にその存在を知らしめた。彼らは、胴体中央で正面から結合していたが、肝臓を共有するだけで、それ以外は自分のものを持っていた。

当時ほとんど知られていなかった結合双生児の存在は、1829年に彼らがイギリス人によって発見されてから、医者の好奇心の的になった。

兄弟の体がつながっている数十cmほどの結合部を調べた医者によれば、その中央部に針を刺すと、どちらも痛みを感じるが、中央部から数cm離れると刺した半身側の兄弟にしか痛みがなかったという。

(via wikimedia)

兄弟は味覚も共有しており、片方が酸っぱいものを食べれば、もう片方も酸っぱさを感じ、また片方をくすぐると、もう片方が止めるように言ってきたという。

見世物でサーカス巡業し大成功

兄弟はサーカスの見世物として欧米を巡業し、10年足らずで大きな富を築いた。彼らはその財産でアメリカの市民権を取得し、奴隷を買って大規模農園を始めた。普通の女性(姉妹)との結婚も果たし、兄のチャンは11人、エンは10人、合計で21人もの子どもを儲けた。残念ながら、彼らの性事情について記録は残っていない。

【娘と息子と一緒に撮影した写真】

(via wikimedia)

そして彼らの死は62歳のとき、同日に訪れた。兄のチャンが気管支炎で息を引き取った後、エンも三時間後に兄の死を追うようにして亡くなったのである。

3.ロニー&ドニー・ガリオン

(via Cerev)

ロニーとドニーは、存命中の世界一長寿な結合双生児である。1951年、アメリカ・オハイオ州で生を受け、現在67歳。

一般人なら、この年齢は長生きでも何でも無いが、結合双生児において60代まで生存することはかなり珍しい。生後数日の生存率は5~23%、成人できるのはその中で10%ほどだ。

二人は、胸から性器のあたり(鼠径部)が結合していて、消化管の下部と性器などを共有している。だが脚と腕はそれぞれ自分のものがあるので、二人で協調して生活を送っている。

サーカスの見世物に

(via ati)

両親は彼らの他に7人の子どもがいたため、2人の障害児を面倒見ることができず、サーカスの見世物として働かせた。二人の結合児は、アメリカ中で有名人となり、大金を稼いで一家の生活を支えた。

二人は30年以上サーカスで働いた後に退職し、稼いだお金で一軒家を購入し、そこで普通の人と変わらない生活を送っていた。ロニーが重篤な肺の感染症にかかった2009年以降は、弟のジムとその妻が一緒に暮らし、彼らの生活を支えている。

4.ミリー&クリスティン・マッコイ

(via wikimedia)

ミリーとクリスティンは、1851年に鍛冶屋の奴隷の両親から生まれた。彼女たちが生まれる前から、両親には7人の子どもがいたが、いずれも健常児であった。姉妹は脊髄の下部で結合し、直立すると約90度をなした。

二人は生後10ヶ月で売りに出され、複数の興行師を点々とした。「双頭のナイチンゲール」や「世界八番目の不思議」などの芸名で
親しまれていた。また彼女たちは5ヶ国語を習得し、ダンスや演奏、歌唱のパフォーマンスを行うこともできた。特に彼女たちの知名度は、バーナムサーカスに参加するようになってから高まっていった。

彼女たちは30代でサーカスの仕事を辞め、故郷で暮らした。1912年、61歳のときに肺結核で二人は亡くなっている。

5.クリスタ&タチアナ・ホーガン

(via Maclean’s)

2006年カナダ生まれのクリスタとタチアナは、頭蓋骨の結合した双子であり、脳の一部(視床)を共有している。そのため二人はお互いの思考や感情も共有できる。

また研究者によると、二人は視覚野の信号も共有していることが確認されている。そのため、二人はどちらの目からも「見る」ことができるのだ。

(via io9)

二人は幼いころから高血圧などの健康的な問題があり、数々の手術を受けてきたが、現在は元気で普通の学校生活を送れている。

6.ラダン&ラレ・ビジャニ

【亡くなる1ヶ月前の写真】

1979年、イランに生まれた二人は、外科的な分離手術によって亡くなった。二人は頭部を共有していたが、性格や考え方、趣味が異なっていたため、一緒にいると自分のしたいことができなかったのだ。

片方は外交的で、もう一方は内気だった。そして大学を決める時にも、片方は法学部を望んだが、もう片方はジャーナリズム学が勉強したかった。最終的に、中東で最も権威あるテヘラン大学で法律を学ぶことになった。

このようなことから、二人は子どもの頃から別々になりたいと思っていたが、結合部位が頭であるため、医者の多くが非常にハイリスクだとして手術を拒否していた。

だが2002年、二人が23歳のときにシンガポールで執刀する医師が見つかったのである。その医師はかつて、彼女たちと同じ頭部結合した双子の分離手術を成功させていた。医師は、手術は極めてリスキーなものになると伝えたが、ラダンとラレの意志は固かった。

28名の外科医と100人の医療スタッフでチームが組まれ、大がかりな手術が行われた。だが分離されてまもなく、大量の脳失血で二人とも命を落とした。

7.アビゲイル&ブリタニー・ヘンゼル

(via Worldemand)

アビゲイル&ブリタニー姉妹は、アメリカのミネソタ州で1990年に生まれた。結合双生児の中では珍しいタイプで、体が対称的にくっついており、外見は頭と首が2つある以外、少し胸幅の広い1人の体のようである。

だが彼女の体には脊髄が2本通り、肺は4つ、心臓は2つ、肝臓は1つ、胃は2つ、腎臓は3つ、大腸は1つ、小腸は1つ、性器は1つある。脚は2つ、腕は生まれた時に3つあったが、中央にあった動かない腕は手術で切除された。

二人はそれぞれ片方の腕と脚にしか感覚がないので、両手・両足を使う時はうまく協調しながら動かさなければならない。だが二人の息はぴったりと合っているので、歩くことはもちろん、走ったり、泳いだり、自転車さえ乗りこなす。しかもその動作速度は一般人と変わらない。

また二人は自動車の運転免許を持っている。運転は1人ではなく2人でするので、試験を2回受けてそれぞれが免許を取得した。運転時、ハンドルは2人で、ベダルとシフト役、ウィンカー役でそれぞれ分担が決まっているそうだ。

(via DirectExpose)

双子は性格が全く異なり、好きなものと嫌いなものが明らかに違う。食べ物や洋服、色などほとんどの好みが一致しないのだ。洋服に関しては、同じものを着るしかないので、特注でネックラインだけ別々にして個性を強調している。

2017年の取材では二人はベテル神学校で教育学を修了し、フルタイムの小学校教諭(5年生担任)になったことを伝えていた。

【小学校の教職採用が決まった二人:仕事現場の撮影】

8.ジャコモ&ジョバンニ・バティスタトッチ


トッチ兄弟は、イタリアで1877年に生まれた。二人は胴体で結合しており、腹部や骨盤、脚を共有していた。腕は4本あったが、脚は2本、心臓は2つ、胃は2つ、肺は2組あった。下半身の消化器系は二人で一つだった。

二人が生まれた当初、父親は初めての子どもだったため、ひどく落胆したという。心身が衰弱し、精神病院へ1ヶ月入院しなければならいないほどだった。

だが父親はそれからまもなく、兄弟をトリノにつれていき、サーカスで見世物として展示するようになった。兄弟は自国のイタリアだけでなく、スイス、ドイツ、フランスなどヨーロッパ各地を周り、最終的にはアメリカまで遠征して巡業を行った。アメリカでは、1週間の巡業で10万円以上が支払われたという。

兄弟は幼い頃から見世物として展示される毎日だったため、普通に歩くことは最後までできなかった。1人1つの脚しかコントロールできないので、歩行するには子どもの頃から訓練が必要だった。また両親にとっては二人が歩けないほうが、金稼ぎの道具として都合が良かった。

二人は1897年、20歳のときにサーカスの仕事を辞めた。それからベネチアにある高い壁が張り巡らされた大邸宅に移り住み、そこから決して離れることは無かった。彼らは、これ以上見世物になることに嫌気がさしていた。

それから7年後の1904年に、兄弟が二人の女性と結婚したことが伝えられた。だが彼らは外界との接触を断っていたため、子どもができたのか、いつ死んだのかについては分かっていない。

参考:phoenixnewtimes

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雑学

Posted by uti