歴史上の恐ろしいほどに邪悪な人間・8人

非人道的な行いにより、戦争や殺人、大量虐殺、暴動、飢饉などを引き起こした恐ろしく残酷な歴史上の人物をご紹介していこう。

1.ヴラド3世(ドラキュラ公、1431年~1476年)

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ヴラド3世は、ルーマニア南部にあったワラキア公国の王子であった。吸血鬼ドラキュラのモデルになった人物としてよく知られており、人を殺すことを楽しむ非常に残酷な人間であった。

ヴラド3世は、国民の20%にあたる10万人以上を殺害したと言われ、その最も一般的な処刑方法が串刺しだった。

ヴラドは犠牲者の足にそれぞれ馬を取り付けて歩かせ、杭を徐々に体に押し込んでいった。 杭の端には通常、油が塗られており、杭が鋭くならないように注意が払われていた。なぜなら鋭いと被害者はすぐに死んでしまうし、見ていて楽しくないからだ。

杭はお尻から体に挿入され、口から出るまで押し込まれた。 それ以外にも身体の開口部から、あるいは腹部や胸部から突き刺されることも多くあった。ヴラド3世の別名が「串刺し公」と呼ばれているのも、これがゆえんである。

串刺しは、ヴラドの最も好きな殺し方だったが、それだけではなかった。 毒殺、失明、絞殺、首切り、刺殺、手足切断、皮剥ぎなどのあらゆる残酷な処刑が行われた。

またヴラドは病人、弱者、貧乏人、乞食、浮浪者を嫌っていた。 あるとき、貧乏人や病人の国民を偽のパーティーに招待して、「貧乏人以外のものになりたいか」と尋ねた。 彼らが全員イエスと答えると、ヴラドはすぐに火あぶりにしたという。

2.バートリ・エルジェーベト(1560年~1614年)


バートリ・エルジェーベトは、ハンガリー王国の貴族である。史上名高い連続殺人鬼であり、ヴラド三世と同様に、吸血鬼伝説のモデルの一人といわれる。

彼女は若くて新鮮な血を浴びれば、若返ると信じていた。そのため若い娘を誘い出し、「鉄の処女」で殺してその血を浴びたり、拷問器具で指を切断し、苦痛な表情を見て楽しんだりしていた。

【鉄の処女】

ときには若い娘の体に針を指し、血を飲むこともあった。そして身体の具合が悪いときには、娘達の腕や乳房や顔に噛み付き、その肉を食べたという。

また使用人に命じて娘の皮膚を切り裂いたり、性器や膣を取り出したりした。多くの少女が何週間も拷問を受け、その間に切り取られた自分の肉を食べさせられることもあった。

このようにしてバートリ・エルジェーベトが殺害した少女の犠牲者数は、650人に上ると言われている。その悪行が公になると、彼女は裁判にかけられたが、高貴な家系であるため死刑をまぬがれ、生涯幽閉されることになった。

3.アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年)


1933年から1945年までドイツの首相であり、ナチス党の総統であったアドルフ・ヒトラーは、おそらく最も知的で、創造的で、残忍な独裁者であった。

ホロコーストと第二次世界大戦に対して重大な責任を負い、ヒトラーの行動によってもたらされた死者は数千万人に上るとされている。

ヒトラーは、ユダヤ人がすべての問題の根本原因であると信じ、ユダヤ人を人間としてみなしていなかった。ユダヤ人を排除するためにホロコースト(大量虐殺)を行った。

ドイツや占領地のユダヤ人は、強制収容所に送られた。 すべてのユダヤ人は、死ぬか殺されるまで働かされた。そしてガス室、焼却、銃殺、致死注射、強制労働、飢餓、毒殺、病気、死の行進(強制的な移動)、医学実験などあらゆる方法で殺害された。ユダヤ人だけでも犠牲者は600万人に達した。

それ以外にも、ヒトラーは敵や問題だと思った人間は誰でも殺していた。

ヒトラーの命令によってもたらされた死者は1100万人以上(エホバの証人5000人、同性愛者1万5000人、フリーメーソン10万人、精神病者10万人、ジプシー50万人、スラブ人75万人、非ユダヤ系ポーランド人300万人、ロシア人300万人、ユダヤ人600万人)とされている。

4.ハインリヒ・ヒムラー(1900年~1945年)


ハインリッヒ・ヒムラーは、アドルフ・ヒトラーに次ぐドイツ・ナチスの権力者であり、親衛隊のトップであった。そして誰よりも、ヒトラーが決定したユダヤ人など穢れた血に対する迫害を奨励し、促進した人物でもある。

ヒムラーは、ポーランド人、ロシア人、共産主義者、その他ナチスが生きるに値しないと判断した集団(身体的・精神的障害を持つ人々を含む)の600万~700万人の命を奪った責任を負っている。

そして殺害したユダヤ人の骨や皮で作られた家具や本を自宅に飾っていた。

ヒムラーはかつて、「決定は東のここにある。2億人のロシア人を戦場で一人一人殺し、血を流して死なせなければならない」と言った。だがヒムラーは最終的にイギリス軍の捕虜となり、1945年に服毒自殺した。

5.ヨシフ・スターリン(1878年~1953年)

ヨシフ・スターリンは、1922年から1953年に亡くなるまでソ連の独裁者であった。若い頃は、彼は強盗であり、暗殺者だった。長い道のりを経て権力を得た後は、30年にも渡ってソ連を恐怖と暴力で支配した。

スターリンの決定は、何百万人もの死者を出す飢饉をもたらした。スターリンは敵を忘れ、自身に好意を寄せていた人々でさえも殺害した。

友人の妻を数人殺害し、娘のボーイフレンドを追放。妻は口論の末に自殺に追い込み、息子は捕虜の人質となったが、交渉を受け付けずナチスの強制収容所で死なせた。

獄中の人々はWWⅡで強制的に戦わされたが、戻ってきたら刑務所に送り返された。 他国から来た何十万人もの人々が拷問を受け、性的暴行を受け、殺害された。

スターリンの支配下で150万人以上のドイツ人女性が性的暴行され、全体で2000万人以上の人々が死んだとされている。

スターリンはかつて 「一人の死は悲劇であり、百万人の死は単なる統計である 」と言った。皮肉なことに、スターリンは1945年と1948年、ノーベル平和賞にノミネートされている。

6.ポル・ポト(1925年~1998年)


ポル・ポトはカンボジアの革命グループ「クメール・ルージュ」のリーダーであり、カンボジア大虐殺を指揮していた。

新しい政権を開始し、新しい時代を切り開くため、ポルポトはカンボジアの文明破壊を行った。都市の住民、資本家、技術者、知識人などから一切の財産・身分を剥奪し、農村に強制移住させ、都市をゴーストタウンにした。

そして学校、病院、工場も閉鎖し、銀行業務どころか貨幣そのものを廃止し、私有財産と宗教を禁止し、都市文明を否定した。これらはポル・ポトら、クメール・ルージュが目指す原始共産主義の実現のためだった。

また高度な知識や教養は、ポル・ポトの愚民政策の邪魔になることから眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から粛清の名目で殺害した。

カンボジア各地にはキリング・フィールドと呼ばれる大量殺戮のための刑場が作られ、国内人口の25%にあたる約200万人が殺害された。

7.チンギス・カン(1162年~1227年)


チンギス・カンは、世界人口の半数以上を統治するにいたった人類史上最大規模の世界帝国、モンゴル帝国の基盤を築いた初代皇帝である。

チンギスカンは、冷酷で、復讐心が強く、残酷で血に飢えていた。従えた軍隊は、数えきれないほどの都市を破壊し、奴隷や民間人、子供まで容赦なく殺害した。

人々は、溶かした金属を目と耳に注ぎ込まれて殺された。ある虐殺だけでも70万人が犠牲になった。ある場所では、貧乏人は首を切られ、お金持ちは宝のありかを吐かせるために拷問が与えられた。

女性は家族の前で性的暴行されることもあった。 何十万もの人が、人生を狂わされた。

チンギスカンの軍勢は、水がなければ馬の静脈を切ってその血を飲んだと言われている。そして敵であったり、裏切り者であったり、不誠実な者であれば、すぐに殺すよう命じられていた。

チンギスカンとその軍隊は、2000万~6000万人(あるいは世界人口の10~30%)を殺害したと言われている。

チンギスカンはかつて、「最大の幸福は、敵を蹴散らして自分の前に追いやることであり、敵の都市が灰になること、敵を愛する者たちが涙に包まれるのを見ること、そして敵の妻や娘たちを自分のものにすることである」と言った。

8.サダム・フセイン(1937年~2006年)


サダム・フセインは1979~2003年までイラクの独裁者であった。その支配下で、およそ200万人が犠牲になった。

フセインは、クルド人の村ハラブジャへの化学兵器による攻撃を許可し、5000人を殺害。 クルド人に対するサダムの1987年~1988年のテロ作戦では、5万~10万人が殺された。

アムネスティ・インターナショナルの報告書では、「イラクでの拷問の犠牲者は、目のえぐり取り、激しい殴打、電気ショックなど、さまざまな形で拷問を受けていた。その結果、多くの犠牲者が永続的な身体的・精神的ダメージを受け、死亡した犠牲者もいた」としている。

サダムはまた、自分の身内約40人を殺害させている。40万人以上のイラク人を処刑し、その多くを拷問にかけていた。その一部始終は、サダムが自宅で見られるように撮影されていた。

2006年、サダムはイラク特別法廷で大量虐殺などの罪で訴追され、絞首刑に処された。

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雑学

Posted by uti